最近のパスワーク財団のメルマガに、現実にある分裂を愛ある場で明らかにし、その上で調和を見出そうとする意図を頻繁に感じます。
スピリチュアルな場だからと言って、社会にある分裂や差別がない訳ではありません。できるだけマスクを外す努力をした上で、真の自己のまま対話の場に座ろうというコミュニティーからの呼びかけを感じます。
昨年には、コロナワクチンを摂取した人と摂取しない人のパネルディスカッションや、性的マイノリティーのパスワーカーによるパネルディスカッションが、それぞれ経験豊富なシニアヘルパーのホールドの元で開催されていました。
表題の「対立の和睦」は、ワクチンについてのパネルディスカッションについていた題名です。
ワクチン問題については、アメリカでは日本以上にあからさまな、時には強い感情的反応と共に議論が繰り返されて来たのだな〜と感じました。
パネルをホールドされていたセージ・ウォーカーさんによるオープニングで強く心に残ったのが、愛の意図がある場で、敢えて分裂を取り上げることを世界への貢献と話されていたことです。
パスワークシニアヘルパーとして、パスワークが得意とすることを世界への貢献として提供したいという深い愛と強い信念に心打たれました。
この2つのディスカッションで感動したのは、パネラーの方々が、本当に傷つきやすい所からシェアすることです。パスワーカーの真髄だと思います。
その傷と痛みを、パスワーカーとして個人的にワークし続けて来たこと、また対話の場にありのままで座るため十分な準備をされてきたことが分かります。
これまで、限られた輪の中でシェアされ、ワークされ続けてきたであろう痛みが、より大きな輪(スペース)を求め、世界への贈り物として表現されていることを感じました。
今月のブログは、国際パスワーク財団の2月のメルマガに掲載されていた、キンバリー・ミドルトンさんの投稿からシェアさせて頂きます。
アフリカ系アメリカ人のヘルパーであるキンバリーさんも、ご自身の傷の癒しを、コミュニティーひいては世界へのギフトとして表現していると感じました。
以下、部分的な翻訳と要約でシェアさせて頂きます。
「これは私のストーリーです。沈黙のままでいれば、私の声も経験も、物語の一部にはならないでしょうから。
PTP(パスワーク自己変容プログラム)は、多くの過去を癒す助けになってくれました。けれど、私のパスワークの実践が、助けにならなくなった時点があったのです。2020年は、私の文化、ジェンダー、アイデンティティー、民族、言語、食べ物、音楽、世代的な遺産について、霊的な旅路の中でどのように位置づけたら良いのか再考させられる年でした。」
キンバリーは、2005年ワシントンでPTPに参加し、その後、ヘルパーシップのトレーニングプログラムに進みました。
彼女は当時、そのグループを「十分に」多様だと感じていましたが、2020年、ジョージ・フロイドさん殺害事件後、グループの黒人は彼女だけであったことに改めて気づかされたそうです。
パスワーク・コミュニティーの殆どのリーダー達が、この事件、人種差別による殺人について語ることに困難を抱えていたと彼女は書いています。10年以上学んできたコミュニティーは、至る所で行われている人種差別に対して何の声明も出さなかったと。
この一文に、彼女が感じた痛みと、踏み出した道を感じました。
パスワーク仲間の1人から声をかけられ、コミュニティー内で人種差別についてのフォーラム「困難なディスカッション−人種差別と霊的なグループ」を開催しましたが、そこでは、白人の立場での感情が語られることが多く、各人がそれにまつわる霊的ワークを抱えており、共にワークすることが自らのニーズを満たすとは感じられなかったそうです。
キンバリーは、様々なリソースを通して、自分のワークを進めました。
彼女の書いているリソースの一つに、以前このブログでもご紹介した、タラ・ブラックさんのニュースレターがありました。(タラは、この分裂を癒すための活動を様々に行いつつ、白人女性のアイデンティティーを通して感じてきた、ご自身の傷や癒しのプロセスも頻繁にシェアしています。)
キンバリーは、自分自身で情報を集めてワークしつつ、パスワーク・コミュニティーにおいては、それらリソースのレベルでの関与を見つけられなかったと書いています。
フィラデルフィアに長年ワークしている黒人女性ヘルパーがいるという噂を聞いたキンバリーは、彼女の勉強会に参加しました。
そのヘルパーは、キンバリーが属しているパスワーク・コミュニティー(アメリカには地域によってコミュニティーがあります)でトレーニングを受けており、キンバリーの直面したチャレンジを経験した人でもありました。
勉強会には黒人女性達8〜10名ほどが参加しており、キンバリーは、このように書いています。
「すぐさま心地良さを感じたのが、私自身がフィラデルフィアから30分のデルウェアで育ったからなのか、あるいは、文化の共有感がこれまで欠けていた連帯感を感じさせてくれたのか、はっきりしません。」
月1回ガイドレクチャーを共に学ぶ中で、自分が育った家庭特有と思っていたフレーズに、グループの皆が頷いていたと書いています。
「私の家に住んでいる以上は…」
「私のようにするんじゃない、言いつけられたことをやれ」
グループは、その痛みと世代的なトラウマの対処をガイドレクチャーに求めました。
ケタンジ・ブラウン・ジャクソン氏のアメリカ合衆国最高裁判事の為の公聴会で聴聞された時のマイクロアグレッション(政治的文化的に疎外された集団に対する何気ない日常の中で行われる言動に現れる偏見や差別に基づく見下しや侮辱、否定的な態度:Wiki引用)についてグループで話し合った時には、教育を受けた黒人女性として大学で教授に教えられたフレーズを思い出したそうです。
「黒人だからこそ2倍頑張らないといけない。それでようやく皆がやったことの半分が認めてもられる。」
これもやはり、グループの多くが聞いたことのあるフレーズでした。
レクチャー58番からグループは慰めを得たそうです。
「幸せが最も高次元に開いた状態はこのようなものです。『それが何であろうと、私は外的状況からは独立しています。どのような状況でも、私は幸せでいられます。何故なら、不利益も不愉快な出来事も、私を完全な自由と無限の幸せの近くまで連れて行ってくれるから。』」
最後に、レクチャーの智慧は、時代を超えているが、この教えを説明する人々の世代、言語、文化的背景によって解釈が異なる場合もあるのではないかとキンバリーは書いています。
「レクチャーのメッセージの普遍性にフォーカスしつつ、多様性と包括性を強める方向に進みながら、歴史的に教えを提供してきた世代を超える多様性へのスペースがあることを願います。包括的なアプローチを生み出すことは、霊的な道(パス)の旅路に様々な人生経験をもたらすであろう、より若い世代への扉を開く可能性となるでしょう。」
ガイドレクチャーがチャネルされてから、既に半世紀以上経っています。
人間を通してチャネルされ、人間を通して伝えられ続けてきたことを考えると、どうしても当時の文化社会的背景、個人的背景、公私の歴史やそれに伴う痛み、ワークされていない麻痺がそのメッセージに影響を与えます。
自分が感じた痛みでなければ、仲間にもシェアできないし、サポートすることもできません。
メッセージが純化し真実が熟成するには、個人の中でも集団の中でも、時間が必要だということを感じます。
ガイドが話す、ステップを飛び越すことはできないという言葉には、時間という要素の重要さも含まれているような気もします。
いくらワークしようとも、人間である限りは制限が残ります。
けれど、真実を愛することができればできる程、ワークする動機は高まるのだと思います。感じた真実をなるべく純度高く伝えたいから。
そして、それこそが、今日本の私たちにまでパスワークを繋いで来た火であるような気もします。
性的マイノリティーのパスワーカーのパネルでは、レクチャーにあるガイドの言葉に傷ついた過去が語られ、パネラー各自が、その痛みからそれぞれの真実を見つけ出したプロセスが語られました。
制限のある人間によって運ばれる制限のある真実から、制限を越えようとする強さが生まれ、内的権威をどのように育むのか、学ばせてもらえたディスカッションでした。
内的権威を持ってどのように社会の真実に向かい合うのか、コミュニティーの一部としてどのように自分が感じる真実を仲間に伝えるのか、そして、社会にある不条理や人間としての生臭さを切り落とさずに生きるスピリチュアリティーの真の強さを求める心を呼び覚まさせてもらえたような気がします。
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