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執筆者の写真pathworker

スピリットって何だろう?

今月4月20日(水)から、カナダのシニアヘルパー、マデリン・ディートリッヒによるオンラインワークショップ「大いなるもの〜スピリットと共に創る人生」のシリーズが始まります。


初回シーズンの3クラスは、「生命の流れに委ねる」というテーマのもと、スピリットとの関係性、スピリットと行う共同創造について探究していきます。


ワークショップの体験を深める材料として、マデリンから参加者に送られた質問の中に、「スピリット」という概念をどのように感じるかという問いがありました。

「スピリット」という言葉は、パスワークを学んでいると頻出しますが、和訳するには非常に難しい言葉です。


英語の「スピリット」を辞書で引くと、お酒から、感情・思考・霊性の領域にまたがって多くの日本語の解説があります。(辞書)

仏語の「エスプリ」も「スピリット」と同じ意味合いを持ちながら、フランス文化特有の意味合いまで含みます。

日本でよく聞くようになった「スピリチュアル」という言葉も、日本文化独自の意味を持ち始めているようにも感じます。


個人的な「スピリット」の体験は、集合的な関わりの影響を受けています。

人間としての「我」は、異なる文化を持つ「他」との内なる対話の中で「私たち」を融合し、自らのプレゼンスを通して「スピリット」を表現しているように思えます。


オーストリアのユダヤ系女性がアメリカに渡って始めたパスワークは、いまや多くの国々の文化の中で実践されています。

エヴァを通して表現されたスピリットは、世界の様々な文化に「私たちは何者なのか?」「スリピットとは何だろうか?」と問いかけ続けているようです。


今回、日本のパスワーク・コミュニティーで「スピリット」についてのどのような対話が成されるのか非常に楽しみなところです。




今日お届けするのは、パスワーカーではありませんが、アイルランドの神学者であり哲学者、多くの探究者にインスピレーションをもたらす詩人のジョン・オードナヒュー(1956~2008)のインタビューから、彼の想う「スピリット」の表現を探してみました。


素人の翻訳で恐縮ですが、力強い詩人の言葉で語られるスピリットの体感がお伝えできれば幸いです。




インタビューアーから、当時(2007年4月)のアメリカに、スピリチュアリティーへの飢えを感じるかとの問いに対し、ジョンは答えます。


「神について語る古い言語への信頼が失われたアメリカ文化の核心には、スピリットに対する激しい飢えがあります。この古い言語は、もはや多くのアメリカ人に届くものではなく、人々を滋養の井戸まで導くものでもありません。皮肉なことに、アメリカ文化には、神に対する原理的な執着も見られます。しかし、この原理的な神はコンクリートパネルのようで、味気ない単一的な支配者となる傾向が避けがたく多い。感性とスピリットの美しさを表現し、想像力の深い源である生きた神への注目は乏しいように思います。」


ジョンは、現代のスピリチュアリティーに登場したニューエイジについて、生きた神とコンクリートパネルの神とのギャップを埋めようとする試みであると説明します。

有効なものを批判するつもりはないが、多くのニューエイジは、古来の魅力的な伝統を少しずつつまみ食いして、苦行的な領域をカットした上で、コラージュを創っているかのようだと言っています。


それから、話は彼自身がスピリットをどう感じるのかに移ります。

スピリットをうまく書くには、叙情と理性を真の張力として表現する必要があり、非常に難しいことだと考えている。自身の執筆は、現代の飢えや疑い、一方で、ケルト、ユダヤ、キリスト教的な哲学と文学的伝統との間に対話をもたらす試みなのだと話します。


「現代文明の大きな問題点の一つは、真の対話の欠如です。私たちにあるのは、交差するモノローグの一連でしかない。(中略)私たちには、本当に対話が欠かせないのです。何故なら、お互いへのイメージを壊し、橋を架けることができるのは対話だからです。」


アメリカを二極化させる原因として、ジョンは中立における力強いグランディングの欠如を指摘します。


「中立とは、自律的で本物の、真のバランスを意味します。だからこそ、私たちには責任あるメディア、良い対話、片一方に忠誠を尽くすのではないオープンマインドな大学機関が必要です。哲学の実践とは、どこに到達しようと一つの質問をフォローし続けることだとプラトンは言っています。そのような質問への忠誠は、賢明な中立を創り出し、私たちを過激思想から守るでしょう。」


また、人生を歪曲させる最大の源である恐れについて、ジョンはこのように語ります。


「神学者のパウル・ティリッヒは、「存在することの勇気」の中で、恐怖と不安を区別しています。彼に言わせると、不安とは目的や評価基準がない散乱した心配です。


不安と異なり、恐怖には目的と評価基準があります。ティリッヒは、不安に対処する為には、それを明確な目的を持つ恐怖に翻訳する必要があると言っています。そうすれば、その不安に関与することができます。成長への意図の一部は、自らの恐怖を乗り越えることですから。」




続いて、ジョンはスピリチュアリティーと孤独について語ります。パスワークガイドによるエロスの説明を思い出します。


「孤独とは、滋養的な空間における感覚です。孤独でありがちなのは、人々がその孤独と同一化し、その孤独に怯えることです。(中略)

私たちは、自身の関係性を植民地支配のように扱うことがあります。自分と人との間にある中間の荒野を全て植民地化し、野生が残らないまでに支配しようとする。もはや関係性に活力がなくなったカップルは、このようにして彼らの空間を植民地化しています。彼らは見る影もなく、お互いを飼い慣らしてしまった。(中略)


私が誰かの手付かずの自然を見れたなら、彼女の野生を飼いならそうとは決して思わないでしょう。何故なら、私と彼女の相違の真正、彼女が手にしている危険の純粋さ、愛情の深淵、これらは全て彼女自身の野生から滋養されており、同じく私も自身の野生から滋養されています。

アメリカ文化では特に、孤独を好む人が荒野に出かけることがあります。自身の内的荒野への旅として、この生き方が再評価されないことは残念ですよね。


沈黙は静けさと孤独に左右されます。孤独も静けさもなく、野生も平穏も何であるのか知らなければ、洗練と繊細さをもって耳を傾けることはできません。

孤独、静けさ、沈黙からのシェアを含んだリズムを人生に持ち込んでください。そうすれば、あなたはゆっくりと故郷に戻れるでしょう。それこそが、スピリチュアリティー、つまり故郷へ帰ることの芸術です。」




ジョンは、創造性へと話を続けます。

創造性の核心は二元性にはない。その核心は、両者が出会う場、そして互いに交わる時、両者が何を生み出すかにあると語ります。創造性とは、両極が共に踊るその場に、耳を澄ますことであると。


「創造性とは、それ自身の独自性に自らを開き、その独自性が姿を現すことを許すことです。(中略)

誰かが既に書いた詩を書くことはありません。人間存在は、誰であれ、異郷なのです。そして、私たちは人間以上のものです。個々人は、永遠が突破する開口部、物事が出たり入ったりする扉です。(中略)


真のコーリング(呼びかけ)は全て、そのもの自体であることを呼びかけています。ものがそのもの自体であることを止めると決めたら、例えば、葉っぱが羽になろうとか、通りが川になろうとか決めたら、創造に大きな問題が出るでしょう。」




インタビューアーは、ジョンのHPにあった言葉を引用します。

「私たちを夢見ている見えない生命がある。それは私たちが進むべき真の方向と運命を知っている。思っている以上に、私たちは自分自身を信頼できるし、変化を恐れる必要はない。」


これを摂理と呼べるかという問いに、ジョンはそう思うと答えます。それから、彼自身が思う、人間存在の在り方を語ります。


「個別化した人間という考えは幻想だと思うのです。私たち一人一人の以前には、波及し始めるずっと前の段階があり、そこでは、私たちを存在へと夢見る、形状的なスタック(一時的記憶装置)がある。そして全ての人の後ろにも周りにも、その人の今の経験を密かに形づくる形状的な正確さが満ちている。


私は摂理を、その最高のものとして考えます。全てをバランスし、包含し、遠回しに私たちに付随しているものとして。」


ジョンは、摂理という言葉を運命という視点からも解説します。


「この世に到着すると、私たちの潜在性は内側から展開し始めます。体験とは、私たちの中身が展開される半公共の劇場(私有と共有とが半分という意味)のようなものです。(中略)


摂理は、自由に人生を形づくることができることの対極のスペクトラムにあると言えます。両スペクトラムの中間に、運命と自由の出会いがある。私たちが行う重要な行為は、既に私たちに近づいている何かに自分から近づく為のものなのでしょう。この精妙な出会いが経験を生みます。この秘密の中間で、人生の物語が形づくられます。


私たちは、その全体的なデザインを信頼し、その展開を邪魔せず、その洗練された脚本を私たちのエゴの物語に書き変えたりせずにいるべきでしょう。(中略)

エゴよりも無限に大きな何かが起こっており、それがスピリチュアルな伝統の全てであるように思われます。」




「私たちを夢見る見えない生命(原文)」と題されたこのインタビューは、2007年4月に掲載されています。今から15年前のインタビューですが、その後の世界が歩んだ道のりを思うと、二極化が進む今、私たちの中の何が呼びかけられているのかを示唆してくれるように感じました。


ジョン・オードナヒューはこのインタビューの翌年に亡くなっています。

彼の愛とウィットに富んだ美しい言葉は、今も、私たちがそれぞれにスピリットと繋がる体験への道標となってくれます。

最後に、彼の詩の引用で終わりにしたいと思います。


「私は、川の流れのように生きたい。流れそのものの展開への驚きに運ばれながら。」

"I would love to live like a river flows, carried by the surprise of its own unfolding."


PIJオンラインワークショップ

大いなるもの〜スピリットと共に創る人生


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