興味深い表題で、ジョン・オードナヒューのインタビュー記事を見つけました。
スピリチュアリティーとビジネスの組み合わせって刺激的ですね。ビジネスにはお金が動きます。
この記事を書いているパスワーカーにとって、お金はとても難しい課題です。
人間はパンだけでは生きられないけど、パンだって食べなきゃ生きていけない!
霊的な叡智の純度を保ち、人間社会で持続可能にするには、ビジネスの枠組みは方法のひとつだと思いつつも、この人間世界、難しさはあると感じます。
以前のブログで、スピリチュアリティーに飢える社会についてのジョンの言葉を翻訳したことがありました。
この記事では、彼が「ビッグマック・スピリチュアリティー」と皮肉る、スピリチュアル本の大量消費から話が始まります。
「スピリチュアル系の本って綿菓子みたいだ。読めたもんじゃない。」彼は、こそっと囁いた。「ナイフを入れても何処にも背骨がない。ただのベトベトだ。店はそんなもので溢れてて、人々はそれを消費する。」
記者は、ジョンの著書が市場で大成功していることにも触れながら、彼の皮肉な言葉の裏に、世界にあるスピリチュアルな飢えをより滋養のある何かで満たしたいという想いを感じたと書いています。
「私は言語を愛している。言葉って驚くべき存在だ。でも、私たちは神の生きた言語を失っている。今やこの領域全体がスピリチュアルな寄せ集めの言語で覆われていることが問題のひとつだと私は思う。セロファンの包みのようなもんだ。そんな中では、息ができない。」
「魂」という言葉からも、そのインパクトが奪われていると話は続きます。
ヘラクレイトス、アリストテレス、エックハルト等の伝統的な哲学家達によれば、魂は「手にするには、えらい危険な代物」だったそうです。
「好むと好まざるとにかかわらず、魂は私たちをジリジリさせる。永遠の世界と繋げられてしまうから、平凡さや現実逃避の中で幸せに休めなくなる。でも、今日の「魂」という言葉を見ると、この言葉がどう使われてきたのか分かる。心理療法と心理学の大波が、自らの言語に飽きて、「魂」という言葉を発見した。
「魂」という言葉は、自らを改善するという大プロジェクトの中で、消耗したエネルギーの受け皿に成り果ててしまった。言葉って本当に厄介なものだよ。
記者は、ジョンの見解を要約します。
私たちの霊性への飢餓との対話の中で、教会も学会も、霊的な教えの伝統を保持できておらず、本当に必要なのは、霊性を発明するのではなく、再発見することだと。
「私は必要なものは全て伝統の中にあると信じている。私たちはファーストフードのようなスピリチュアル・アウトレットで、貪欲に消費するゴミを求めて買い物して回る必要はない。それではもっと飢えるだけだ。」
ジョンはいくつかの大企業で、独自のサービスを提供しています。
「私はビジネスの世界で色々なことをやってきたし、それが好きなんだ。」ジョンは少し照れ臭そうに言います。
「大企業の役員室に顔を出すのが好きなんだ。彼らが私とは異なる動物、異なる種であることが好きな訳じゃない。その部屋に、巨大な知性があることは保証されており、彼らがあなたに心を開いてくれれば、非常に速く変容の仕事にとりかかれる。彼らの準備ができていればだけどね。」
彼はこう説明します。「どの組織にも計り知れない可能性がある。特に現代社会では、企業は膨大な数の人々が働くコミュニティーの場なのだ。」
記者は、ジョンを雇おうとするビジネスマン達を「非常に実質的で、批判的で、創造的な人達」と表現します。そのような中で、彼は仕事をしていると。
「僕はその組織のリズムや雰囲気、リーダーシップの質、そして何よりもその場のプレゼンスや気風を傾聴しに行く。思いやり、創造性、挑戦の気風を持つことが、その人々の最優先課題なんだ。」。
「博士は、自らのアプローチがキリスト教的なものではないことを認めている」
「彼は、有意義な仕事に対する人間の渇望を強調することで、自身の関与を擁護している。」という記者の描写に続き、ビジネス界との関わりについて、ジョンの少し自己弁護的にも感じられる表現が続きます。
「僕はエックハルトの言葉が好きだ。『心から行えば、その仕事には必然的に美と創造性が宿る。』」
「スピリチュアルに燃え上がるのは私の義務ではない。」
ちなみに、このインタビューは、キリスト教教会の機関紙で行われています。
続いて、ジョンはスピリチュアリティーをビジネスに持ち込む危険性にも触れています。
「自らのヴィジョンと疑問については、明確でなければならない。良きことへの働きを守る必要がある。」
「自分が提供する言葉については、細心の注意を払わねばならない。分かるでしょ?吸収されてしまう危険性があるんだ。もし、自分の何かが役に立てば、それは取り込まれ、自分が同意しない目的の為に、あっという間に使われてしまう可能性があると理解しておかないと。」
それから、ジョンの当時の新作『ベネディクトゥス(祝福の本)』が生まれたきっかけが話されます。
「僕の友人がブラジルの山中にあるヒーリングセンターに行ってきたんだ。そこには、みんなが様々な詩や祈りがホチキス留めしているテーブルがあった。そこで、友人は僕の文章をひとつ見つけたが、なんと!一番下に、アイルランド人の尼僧の著作と書いてあったらしい。」
ジョンの大笑いが部屋中に響き渡った。
「アイルランド人のシスターだって。ジーザス!(俗語表現)」
言葉の美しさと正確さを尊ぶ神秘主義者にしては、彼がこの「ジーザス」を口にする多さに驚く人もいるだろう。
「ジーザス!みんな僕をぼったくってるんだなって思ったよ。だから、自分で自分をぼったくろうと思ってさ。腰を下ろして考えたんだ。皆んないつも祝福して欲しいって頼むから、祝福についての本を書くべきだろうと。」
ジョンは既に多くの著作を為していましたが、著作で神という言葉は使っていません。
「でも埋め合わせに、最後にイエスへの愛の詩を書いたよ。テーブルの上にそのカードを置いて、『私が為すことは、イエスという人を通します。』と言ったんだ。私は祝福のひとつひとつを、それが提示する風景の小さな心理的肖像画にしようとした。そして、今は祝福され尽くした気分だ。もうスピリチュアルなことは十分書いたと思う」。
記者は、彼がコーリング(呼びかけ)を感じていていること、人々の変容をサポートできることを喜んでいるに違いないと書いています。
「いつも誰かに、『あなたの本を読みました』と言われると驚いてしまうんだ。私はいつもこう言う。『ジーザス!まじで?ダメージ与えてないと良いけど』って。」
「私は農家で育ったんだが、一日の終わりにはいつも、労働に見合った物理的な見返りがあった。壁が築かれ、庭がつくられ、沼地が干拓され、草原が開拓された。でも、私の仕事では、一日の終わりにも何も見えないんだ。
前に僕の話を聴いた人に再会して、『ジーザス!あなたの話が私に何をもたらしたか、きっと想像もつかないでしょう。』なんて言われるのが十年後かもしれない。でもそこで、誰かの人生で、何かが変容していたことの淡い輝きを得るんだ。」
ジョン・オードナヒューにとっても、与えて受け取ることは学びのようです。
彼は、微笑みながら最後に締めています。
「人々のハートに触れるのは、とても特別なことだ。古いブロックが和らいだり、恐れていた変化の入口に実際に足を踏み入れたりする。大きな変化は、穏やかで、何でもないような小さな方法で起こるのだと思う。人々は真に変容することができる。それって、とても素晴らしいことだよ。」
聖職者には召命があります。霊的な学びにもコーリング(呼びかけ)があります。
ジョンが表現している、自分のでも人のでも「ハートに触れる」というロンギングもあります。
探究の楽しさや、自身の変化の手応えもあります。
道があるから歩くし、道そのものに歩かされるし、道の先から聞こえる呼びかけで歩く根気が続きます。そしてやっぱり、歩いて行くのに路銀も必要!と思うパスワーカーでした。

お金は他の全てのものと同じで、原理も一緒です。お金がお金という目的ではなく、何かの目的の手段として使用される場合、正しい統合となります。人がお金で物質に縛られるのではなく、お金を健康や才能等、他の神の贈り物と同じように感謝の気持ちで使い、お金の心配から自由になることを意識的に選択する時、彼らの精神的な発達と統合が良いものになります。
96年版PL8番
「霊媒能力--神の霊的世界と繋がる方法」
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