コミュニティーメンバーからのシェアは、日本のパスワーカーが、お仕事でパスワークの学びをどのように活用されているか、シェアしていただくシリーズです。
今回は、お母さん業に勤しむパスワーカー、米麹さんよりご寄稿いただきました。
私がパスワークに出会ったのは、アリソン・グリーンバートンさんが来日した際のワークショップでした。
理想的自己像についてのワークショップで、アリソンから、「あなたは、あなたのお母さんとは違う」と言われたことを今でも忘れられません。それで良いのか?と足場が崩れるような不安な気持ちになりました。
それから何年かして、やはりアリソンのワークショップの中で、母親になりたいというロンギングに触れ、2年後に子供を産みました。
子供が生まれてすぐの頃も、学びは続いていました。
月に一度のレクチャー・スタディーに行き、羽を伸ばして帰って来ると、夫が抱っこ紐で子供を抱いたまま、どういう訳か洗面所の床で疲れ果てて寝ていたり。幼い子供を置いて、自分の学びを追求している罪悪感をグループでシェアして泣いたこともありました。
私の一番古い記憶が、母親から置いて行かれた記憶だったもので、その部分についてはとてもセンシティブでした。
自分が受けた痛みを認識しながら母親になり、今度は自分が子供に与える痛みに怯えるようにもなりました。愛しているからこそ、あるがままではいられないような気がしていました。
ガイドレクチャー155番『自己に対する恐怖「与え、受け取ることについて」』にある「最奥の自己に対する不信感」という言葉そのままです。
尊重を親から得ていないのに、どうして子供を尊重できるのかと、どんな答えをもらっても納得せずに泣いていました。子供を生んだ当初、どのクラスも殆どの時間を泣いていたような気がします。
毎日の忙しい生活の中で、最高の自分も最悪の自分も、子供に与えることになります。
少し大きくなって、公園でお友達ができたり、幼稚園に入ったりすると、その成長と共にこれまた色んな自分が隠しようもなく噴き出します。
それまでだったら無意識に避けていたような人と近しくなったり。自分では気をつけて飛び込まないようにしていたような状況に、全身で飛び込む子供の後を追ったり。
剥がれ落ちる理想的母像を必死にかき集めながら、子供を追いかけていた自分を思い出します。
勘弁してくれと思いながらも、子供の頃には味わえなかった多くのことを追体験する自分がいました。子供の頃には得られなかった助けも沢山受けとることができました。
子供が、私自身の辛い思い出がある年頃になった時には、子供から遠ざかろうとする自分も出てきました。遠ざかると、子供はそれは違うと、全存在で教えてくれます。
子供のためと踏みとどまって、過去と今との違いを認めることを手伝ってくれたのもパスワークです。
子供のためと言いながら、今ある成長は、ほとんど子供のおかげだと思います。パスワークは、私がこの追体験をできる限り味わうためのツールになってくれました。
子供を通して、自分の中の幼い部分に出会えたおかげで、自分自身が親から与えられたものも、同じ親の視点で見直す部分も増えてきました。
母親って、振り返らない子供の後を、大荷物を抱えてゼーゼー言いながら、追いかけているだけのような気がします。
自分自身が何者なのかを探しながら、何が最善かも皆目不明なまま、子供が自分の真の自己を探し始める道のりのほんの出だし部分だけ、一緒に味わわせてもらっているようにも感じます。
親が思うより先に子供の方が育っているし、親が思うより子供は強かったりもします。
子供に悪いことをしたと思って謝って「ママは気にしすぎでしょ」と言われたことがありました。その時、私が気にすべきは、子供を無傷でいさせることではなく、たとえ傷ついたとしても子供には自分の人生を生きる強さがあると信じることだと感じました。
それは同時に、過去に傷ついた部分があったとしても、私にはその部分を癒して生かす力があると、自分自身を信じることでもあります。
今は、自分を信じられる部分と、信じられない部分とが入り混じっています。
これから思春期に飛び込んでいく子供の後を、私はまたゼーゼー言いながら付いて行き、私自身の強さを信じられない部分と毎回出会いながらも、パスワークに助けられつつ、私なりの「お母さん」を満喫するのだろうと思っています。
読んでくださり、ありがとうございました。
米麹さん、ありがとうございます!
愛があるから癒しが起きる。文中のアリソンが良く言っている「愛は全てを癒す万能薬」という言葉を思い出します。
愛で傷つき、愛で癒される。
愛はミステリーですね〜昔懐かしい歌が心によぎりました。
「あなた方の多くは、他者から受け取れなかったと嘆いているものが何であれ、それを人に与えることを自分に許していないことによる痛みを、少なからず感じているのです。」
155番『自己に対する恐怖_与え、受け取ることについて』
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