今月のブログは、パスワーク財団のニュースレターでシェアされた、バート・ショーさんの文章を要約してご紹介します。ヘルパーシップが生まれた経緯のお話です。
バートはパスワーク創設期からのシニアヘルパーであり、フェニキアとマンハッタンの両パスワークセンターにおいて、エヴァとジョンと共に理事を担われてきた方です。
文中に出てくるパートナーのモイラ・ショーさんは、50/50ワークを創り出したシニアヘルパーです。
*50/50ワークとは、長年にわたるガイドレクチャーの研究でモイラが見出して50/50と名付けた、ガイドの智慧を理解するための概念です。PIJでお馴染みのアリソンをはじめ、多くのヘルパーがモイラの下で50/50ワークを学んでいます。
バートは今年7月に他界されており、この文章はモイラから財団にシェアされたものです。(原文)
バートがエヴァに出会ったのは、1965年のニューヨークでした。
当時「サイコセラピー」と呼ばれていたエヴァの個人セッションから、パスワークを始めたそうです。
セッション中にコーヒーを淹れたり、シガレットホールダーでタバコを吸ったりする、カジュアルなエヴァの様子が書かれています。
1950年から60年初め頃までは、エヴァは個人セッションをトランスで行っていました。トランスセッションをしなくなった後でも、「頼めば」やってもらえたと書かれています。
2週間おきの1時間半、毎回35ドル。今の為替で5000円ちょっと。時代を感じます。
「それほど経たない内に、私は不本意ながらも月1回、金曜夜のガイド・レクチャーに参加するようになりました。私の他は殆どがドイツ人の年上の女性たち12人程で、会場は日本風にデコレーションされた(エヴァの)居間でした。
当時私は、ニューヨークのいかした広告会社のクリエイティブ・ディレクターだったのです。一体何でまた、そんな所で、他の領域から来たガイドに耳を傾けていたのでしょう。」
レコードで流れるシベリウスの曲の中、エヴァはトランス状態に入ります。チャネリングはテープで録音されていました。後から、エヴァ自身が文字起こしをしていたそうです。
翌年、バートは妻のモイラにエヴァを紹介します。
モイラは、当時行っていた子供たちとワークするためのトレーニング・グループに来てくれるようエヴァを招きました。
ここでも「頼めば」すぐに答えるエヴァの様子が書かれています。
グループは、モイラと5人のドイツ人の女性達から始まり、その内、数人のパスワーカー達(ジュディス・サリーさん他5名)が集まり、トレーニング・グループ1と呼ばれるようになりました。パスワーカーは増えており、他にも定期的なパスワーク・グループがエヴァから学んでいました。
その内、エヴァのセッション枠がないワーカー達が、このトレーニング・グループ1のメンバーに任されるようになりました。
ここで初めて、「ヘルパー」と「ワーカー」という言葉が出てきたそうです。
「興味深いことですが、私たちはチームでヘルパーシップを始めたのです。
ヘルパー達は、セッション料金として1ドル〜5ドルをワーカーに請求し、料金はグループ内で分けました。
セッションをした後日にはグループに戻り、セッション中に自分の中に湧き上がって来る、避けては通れない競争意識についてワークしました。」
小さな居間では、増えるパスワーカーの人数を収容できなくなり、ガイドレクチャーの集会は、カーネギーホールのスタジオに移ったそうです。
なんと!パスワークガイドは、カーネギーホールに降りて来ていたようです。
アメリカの資産家であったレベッカ・ハークネスがエヴァを個人的に援助しており、カーネギーホールもレベッカの口利きだったようです。彼女のロードアイランドにある別荘で、エヴァの「真の自己への道(Path to the Real Self)」は完成しました。
(ちなみに、レベッカをNET検索した所、テイラー・スウィフトの「フォークロア」の中で歌われていました。テイラー・スウィフトは、エヴァが上記の本を完成させた別荘を2013年に購入したそうです。)
その内、後にエヴァと結婚するジョン・ピエラコスが、彼女の個人セッションの評判を聞いて尋ねてきました。バートはユーモアをこめてこのように書いています。
「ジョンがこの美しく、生き生きとした『生き物』を一目見た時、彼はすぐに個人セッションを『インタビュー』に切り替えました。エヴァとは、セラピー上の関係にならない方が良いとピンと来るくらい、彼は賢かったのですよ!
ジョンの『インタビュー』の直後からでしょうか。毎週水曜の午後3時ぴったりにドアベルが鳴り、24本の赤いバラの配達が来るようになりました。ジョンがエヴァの人生に入り込むまで、エヴァは私たち皆んなのものでした。でも、ジョンが現れて、私たちの幻想はそこで終わりましたね。」
精神医学的な施術で既に名を馳せていたジョンが現れ、パスワークのコミュニティーはまた新しい形で発展しました。
「防御なき自己」の著者であるスーザンと、パートナーのドノバン・テセンガが参加して、セブンオークスがパスワークセンターになったのもこの頃でした。
ジョン・ピエラコスは、身体についての広範囲な知識と、パスワークの深い知識を合わせ、「コア・エナジェティックス」と呼ばれる体系を創り出していました。
パスワークは、拡張を続けました。
ガイドレクチャーはあるヘルパーの所有であった広いロフトで開催されるようになっており、参加費は2ドルで立見のみでした。
そのうちエヴァは、皆んなのパスワークセンターを創るインスピレーションを持つようになりました。彼女が「インテンシブ」と呼ぶものをする為の「センター」でした。
不動産業のメンバーも含めた数人でフェニキアの広大な土地を見に行き、「リビングフォース・センター」設立に向けた動きが始まりました。
エヴァの兄であるアルバート・ワッセルマンからの寄付で頭金を支払い、彼にちなんで、メインホールは「アルバートホール」と名付けられました。
残りの建設費は、コミュニティーメンバーの寄付で賄いました。
その数年後、ニューヨークには、ジョンが所長を勤める「ニューエイジ研究所」ができました。
エヴァの小さな居間から始まったパスワークは、ものすごい勢いで拡がっていったのです。
「私たちは週末『ワーク』をする為に『リビングフォース・センター』に向かいました。ガイドはいつでもそこにいて、内的なレベルでも外的なレベルでも、私たちを教えて導いてくれました。私たちは4年間、『ひとつの夢』を生きたのです。
『インテンシブ』が行われ、家が建てられ、カップル達は結婚し、赤ちゃん達が生まれ、大事な人達は看取られ、ローアセルフは表現され、ハイヤーセルフがコミットし、マスクは外されていきました!
何百人もの人々が、世界中からセンターを見つけてやってきました。
ジョンと、バーバラ・ブレナンによる科学部門までありました。客観的手段と主観的手段との間のつながりを調査し、探究することが目的でした。
当時この生きている夢に参加しようと、定期的に400人以上の人々が関わり、多くはこのセンターで生活していました。」
バーバラ・ブレナンは著書の中で、バートが「生きている夢」と書いた時期を「光の都市」と表現しています。当時のパスワーカー達の希望と喜びが感じられます。
それから、状況が変わりました。
1976年、エヴァは定期的にスキーに行っていたスイスのアローザで、他のスキーヤーと衝突し肩甲骨の間を痛めました。帰国してから咳をするようになり、時々声が出なくなることもありました。
エヴァは、痛めた背中のあたりに癌を患っており、それは最終的に転移していったのです。
声が出ない時、エヴァはガイドのレクチャーをチャネルしてタイプしたそうです。
エヴァが亡くなった後でしょうか、ジョン・ピエラコスが、モイラにエヴァの持ち物を整理してもらった時に、とても心に迫るエヴァの走り書きを見つけたそうです。
「このレクチャーは、すごく良い。このレクチャーは、体力的に困難を極めるだろう。このレクチャーは、努力を要するだろう。このレクチャーは、美しいものになるだろう。神は私を導いてくれる。これは、簡単ではない。私は新たなタイプライター(訳註:比喩的な意味かと思われます)を学んでいるのだ。それほど、難しくはない。(エヴァのメモ)」
自分に言い聞かせるような文章の羅列です。エヴァが必死にチャネリングを続けていたことが伺われます。
ある晩遅く、バートはジョンに呼ばれて2人のアパートに行きました。
「エヴァはベッドで寝ていました。彼女は私を見て『私を助けてくれる?』と尋ねてきました。彼女は、癌の診断を受けたばかりでした。」
非常に困難な時期でした。何名かのシニアヘルパー達は貯金をはたいて、フェニキアのセンターに住居を建て始めている時期でした。
「センターにある新しい家の基礎の上に立ちながら、ただ空を眺めていたのを覚えています。これは幻想の終わりだったのか?それとも、新たな現実の始まりだったのでしょうか?」
バートの文章には、当時ジョンがエヴァの状況を知らされた時の感情をシェアした短い手記も載せています。
「私は彼女に怒っていました。口にはせずとも共にやっていくつもりだったにも関わらず、彼女は私ひとりに全ての責任を押し付けていくのかと。私たちは、バートにセッションをしてもらいました。私は、自分の怒り、要求、失望をそのまま表現しました。それからは毎回、怒りに満ちた思考を自分で感じた時には、痛みに入っていくようになりました。エヴァを失う痛み。人生の楽しみを共にできなくなる痛み。そして一番ひどいのが、彼女が感じるひどい苦しみです。彼女がそれをどのように通り過ぎるのか、私は完全に同一化していました。(訳註:ジョンはサイキックでした。)彼女の苦しみは、私の苦しみになりました。そして、この痛みの経験から、エネルギーは生命と宇宙の法則を穏やかに受け容れるものへと変容していきました。私の不安と恐れは、『全ては良い』ことへの甘やかな信頼と信念の感情に変容し、私の存在に根づいていったのです。(ジョンの手記)」
エヴァについて、バートはこのように書いています。
「エヴァは自身のプロセスを通して、『真実が何であれ、全ての状況、全ての時において、その瞬間の困難がどのようなものであろうとも、真実を正面から見ることを望む。』という、彼女自身のコミットメントを保持し続けました。」
エヴァは闘病中も、変わらずチャネリングを行い、個人セッションやグループのトレーニングを導いていました。「それが彼女の人生だった。」とバートは書いています。
グループを導く体力を失った時にも、エヴァはテープを聞きながら、ヘルパー達が時々やらかす「ひどいワーク」について彼らと対峙し続けたそうです。
エヴァは彼らに、自分自身のチャネルを育てるよう勇気づけました。エヴァの手紙が引用されています。
「チャネルであるということは、一方の『末端』は神であり、他方の『末端』は、あなたの話を聞いている人々であるということ。思考、言葉、行為において、どんな形であっても、あなたから与えることができる人々がいるのだと想像してみて。」
最終的には、エヴァのワーカー達は全員、シニアヘルパー達に任されました。
一年以上経ってから、エヴァはヘルパー達を呼び集めて、彼女が経済的に悩んでいることを伝えました。ヘルパー達は、セッションをしなくなったエヴァに対して埋め合わせすることなど全く考えていなかったのです。
「私たちがエヴァにかけていた投影は、彼女のニーズを私たちから見えなくしていました。私たちは投影に囚われていたことを恥ずかしく思いました。」
1979年の3月6日、バートは海外でエヴァ死去の知らせを受けました。
「エヴァの最後のお願いは、アイスクリームの一皿でした。看護師達にも同じくアイスクリームがちゃんと行き渡るように気をつけてと頼み、それから、ジョンとチャーリー(訳註:パスワーカー)に部屋を出るように言い、彼女は平和の内に亡くなりました。」
ヘルパー達はエヴァの死で混乱しました。エヴァの代わりにコミュニティーを導くと名乗りをあげる人もおらず、全く見通しがつかない状況でした。
「当時は、その瞬間の自分達で在るという私たち自身の内的なコミットメントが、究極的には『道(パス)』に至るとは想像もできませんでした。
(中略)
けれど、ガイドの教えに真実であろうと、私たちは自らの疑いを感じることにコミットしました。そして、疑いをも疑った。信念に開いていったのです。
私たちは、『疑いのない信念は死以外の何ものでもない』ことを知っていました。」
バートの文章では、その後もパスワークのコミュニティー内では、リーダー喪失後のプロセスは続いたように思われます。
文中、バートがエヴァについて、「頼めば」と繰り返し書いていました。
生前のエヴァを知る人々の話で、ただ頼んでみると、エヴァがオッケーを出したことについて、印象深く話す人々が随分いるように感じます。
エヴァは、自分が与えることができる機会に最善を尽す女性だったのかと思われます。
この「頼めば」という言葉に、愛情深く、素朴で強いリーダーシップの在り方を感じました。
「ドアは常に開かれていて、入るのを拒まれることなど、決して、決してないのです。あなたがすべきは、ノックすることだけです。」
ガイドレクチャー258番
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