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「対立の和睦」2023年パスワーク国際会議によせて

今月、カナダで行われたパスワーク国際会議は、「対立の和睦」というテーマで開催されました。

以前の記事で少し触れた、カナダのシニアヘルパー、セージ・ウォーカーさんが主催されたオンライン・ディスカッションから名付けられたようです。


ニュースを見ていると、世界のいたる所で和睦が必要とされているのを感じます。

平和を模索し、和睦を見出そうとする根気強い試みを続ける様々なコミュニティー、その道すじを照らす多くの教師たちの存在に、希望と感謝を感じます。


この記事を書いているパスワーカーは、先日、「ぼくたちの哲学教室」という映画を見て来ました。

映画で見た、現実との愛ある対峙、そして癒しへの根気強い挑戦に感動しました。今月は、その感想を記事にしようと思います。




この映画は、北アイルランドのベルファスト市にある、ホーリークロス男子小学校の校長先生の哲学授業を撮ったドキュメンタリーです。


アイルランドには、イギリスの統治にはじまった、プロテスタントとカトリックの分断による武力紛争の歴史があります。1998年の平和合意で北アイルランド紛争は終結したものの、多くの犠牲者を出したベルファストの傷跡は、映し出される街の風景に見てとれます。


「密集する労働者階級の住宅街に北アイルランドの宗派闘争の傷跡が残るこの地域は混沌とした衰退地区であり、リパブリカンとユニオニストの政治的対立により、地域の発展が遅れている。犯罪や薬物乱用が盛んなこの街の絶望感は、ヨーロッパで最も高い青年や少年の自殺率に反映されている。」

(映画の公式HPより引用)


校門に爆発物が置かれるような状況で、この校長先生は「暴力は暴力を生み、決して止まない」という信念のもと、子供たちの自ら考える力を育てようと哲学を伝えます。


子供に哲学を教える話は最近良く聞きますが、この映画では、授業で語られる哲学だけではなく、生徒の喧嘩や問題行動に向き合う先生たちの姿も捉えています。

きれい事では済まない事がしょっちゅうあるという訳です。


前日に素晴らしく哲学的な発言をしていた子供が、翌日は衝動的に相手を殴る。その子は、父親から「やられたらやり返せ」と教えられていると話します。


「強くないと生き残れない。愛するものを守れない。」過去の紛争に裏打ちされた痛みは、世代を超え、まだ若く柔らかい人格にも恐怖を刷り込み続けます。しっかりと見直されていない過去の痛みが、暴力の連鎖の土壌になっているのです。

生徒から父親の言葉を聞いた陽気な校長先生の顔に、何とも言えない表情が浮かんでいました。


校長先生は、親に問い返す事を子供たちに勧めます。黙って自分を明け渡すな、対話から逃げるなと語りかけます。

自分が子供役になり、生徒を父親役にして、どのように問答できるのかデモンストレーションまでしてみせます。笑っている子供たち相手に、先生は本当に一生懸命です。


「なぜやられたらやり返すの?」

「やり返してどうだった?」

「僕がやり返さなかったとしても、僕のことを愛してる?」

親が当たり前だと思い込んでいる生き方への問いかけです。子供に親を揺さぶらせるということです。この校長先生には、モンスターペアレントの心配などないようです。


新しい時代を創っていく子供たちが、紛争のない新しい生き方を獲得するには、成長の場である家庭も、両親も家族も、新たに生まれ変わる必要があります。

卵が先か、ヒヨコが先か。この校長先生が教育者として見据える、長い長い癒しの道のりを感じました。




映画の小学校は、カトリック系の学校です。

プロテスタントの人々と自分は何も変わらないと言う子供。根本的に違うと言う子供。様々な意見が出てくるシーンがありました。

喧嘩した男の子の片方が、相手を友達と思っていると言い、他方は友達ではないと言うシーンもありました。どう言うにせよ、双方は殴り合いを繰り返すのです。


同じ人間同士であっても、個体という存在の細胞膜がある以上、完全な調和は不可能なのだと思います。人間がもつ調和の限界、ワンネスであるスピリットの世界との違いに、痛みを感じる人は多いのではないでしょうか。

この人間としての限界の葛藤を放棄する時、人は衝動に負けるような気がします。


殴り合った子供たちに「君にとって友達とは何だ?」と問う校長先生の姿に、昔読んだ、灰谷健次郎さんのエッセイを思い出しました。「チューインガム一つ」という子供が書いた詩のエピソードです。


灰谷さんが先生として、チューインガムを万引きした女の子に向かい合った時のお話なのですが、はじめて読んだ時、魂から絞り出されたような詩の言葉と、先生の向かい合いの凄まじさに圧倒されました。パスワークで言うところの「愛ある対峙」のように感じます。

少し長いですが、下に抜粋引用させていただきます。


「この作品が生まれてくる過程を簡単に説明しますと、初め『チューインガムを盗んだ。もうしないから、先生、ごめんしてください』という意味の簡単な紙切れを持って母親に首筋をつかまれて引きずられてきた訳です。

ぼくはその紙切れを見て、

『安子ちゃん、ほんとうのことを書こうな』

と一言いっただけなんですが、彼女はその一言でまた泣き出してしまったのです。

お母さんに帰ってもらって、安子ちゃんとふたりっきりになったのです。

盗むという行為と向き合うことはほんとうに苦しいわけで、彼女は許しを請うことによってそこから解放されようとしている。それはわかるわけです。

しかし、許しを請う世界からは魂の自立はないという思いがぼくにある。(中略)


それで書き始めたのですけれども、一字書いては泣くし、一行書いては泣くし、泣いている時間の方がはるかに多かった。

ここで普通だったら言葉のやりとりがあると思うでしょうけれども、このとき、安子ちゃんとぼくの間で、言葉のやりとりが全くなかったのです。

これは非常に容赦のない世界です。安子ちゃんも辛いだろうけれども、ぼくもものすごく辛い。

これはやめる方がずっと楽です。なぜこんなむごいことをしているのかという思いが片っ方ではあるのですけれども、いまここで、この時間を中途半端におわらせてしまえば、安子ちゃんの人間性を回復する道は永久に絶たれてしまう。

いまここで苦しむことが、彼女が強く生きるということにつながっていくんだと思うと、どうしてもやめるわけにいかない。(中略)


あの作品が生まれるまでに彼女はどれくらいひどい血だらけの格闘をしたか。それはまた同時にぼくが血だらけになるということでもあるわけです。

ぼくが先ほど献身の関係と言ったのはこういう関係を指して言ってるのです。その辛さをお互いに耐え抜くことが、教師と子どものたった一つのどうしても抜きがたい関係だというふうにかんがえているわけです。」

『林先生に伝えたいこと』(新潮文庫)より引用


同書で、灰谷さんは、幼い頃に盗みの体験があると書いています。映画の校長先生も、若かりし頃の自分の行いを思い出すと痛みを覚えると話しています。

しっかり向き合われ、感じられた過去の痛みは、答えのない葛藤を生きる他者を助ける光に変容するのだと思います。


PIJで自己変容プログラム(PTP)とヘルパーシップ・トレーニング(HTP)を教えるシニアヘルパーのアリソンは、同じ暗闇を通り抜けたことがある人ならば、今その暗闇にいる仲間を助けることができると言います。

同じ暗闇が、何度も何度も通り抜けられること、違う形、違う役割で繰り返し味わわれることが、個人と全体の癒しにとって必要なプロセスのように思われます。


個人的なプロセスに、勇気と希望をもらえた映画でした。パスワーク観点からもお勧めです!




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