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エヴァ・ピエラコスとは何者だったのか?part 2

昨年5月の記事で、2018年パスワーク国際会議で発表された、ポール・パケットさんによる「エヴァ・ピエラコスとは何者だったのか?」というプレゼンテーションの概要をご紹介しました。


本日3月30日は、パスワークガイドレクチャーをチャネルしたエヴァ・ピエラコスの誕生日です。

今回は、エヴァのお誕生日を祝して、ポールさんのプレゼンテーションを中心に、続編として、エヴァの子供時代から始め、チャネリングを確立するまでの人生をまとめた形でシェアさせて頂きたいと思います。




エヴァは、オーストリアのウィーンで、ユダヤ人の両親のもとに生まれました。


父のジェイコブ・ワッサーマンは、著名な作家として当時知られており、エヴァは父の家に、ヘルマン・ヘッセ、トーマス・マン、ルドルフ・シュタイナー等の多くの著名人が訪ねて来ていたことを覚えていたということです。ウィーンは文化と教養の中心であり、エヴァは著名な作家の娘として、子供時代を過ごしました。


そのような非常に知的な環境に対して、若いエヴァは反抗心を持っていたようです。ダンサーになりたかった彼女は、ダンス、スキー、小説を読んだり、チョコレートを食べたり、日光浴が好きでした。彼女は強い意志を持っていて、何が欲しいのかということが明確に分かっていたし、自分のニーズを求めることを恥ずかしがるタイプではありませんでした。


母のユーリエは、裕福な実家の出でした。ジェイコブが書き残しているユーリエの形容として、ロマンチック、詩的、想像しがち、スピリチュアル、非現実的などの言葉があることから、エヴァのスピリチュアルな資質は母方から来ていることが見られます。


母を早くに亡くしたジェイコブは、後に父親が再婚した継母とはうまくいかず、家庭的な愛情には恵まれませんでした。家族の誰からも支持されなかった物書きになる夢を独り追い、コピーライターとしての仕事を経て、作家として成功しました。

ユーリエは、ジェイコブの本を読み、伯母のサロンに彼を招くよう頼み込み、2人は出会ってすぐに親しくなり結婚しました。


ユーリエの姉たちは皆、裕福な夫と結婚し、当時の典型的なお嬢さんとして安定した生活を送っていましたが、ユーリエ自身は、物書き、芸術家、知識人を夫に望んでいたそうです。ユーリエも、何が欲しいのか明確な女性だったのですね。


結婚後、3人続けて子供が生まれます。3人目から9年経ってから、1915年3月30日に末の娘のエヴァが生まれました。


しかし、その頃には、両親の中は冷えきっており、郊外に立派な家を建てたものの、そこに父親が住むことはありませんでした。父には既に愛人がおり、エヴァの幼少期は、両親の不和の中にありました。普段は母の家、休日には父の家で過ごすという生活でした。


またエヴァが育った時代は、第一次大戦の敗戦後、オーストリア=ハンガリー帝国が崩壊し、華やかだったウィーンの繁栄にも翳りが見えてきた頃です。ドイツのナチ党がオーストリアのファシストを動かし、ウィーンのユダヤ人への迫害も増えて来ていました。ナチ党がドイツで政権を得た33年、ユダヤ人作家であるジェイコブの著作は禁書とされました。同時代、同じくユダヤ人であったジークムント・フロイトの著作も禁書となり焼き捨てられています。ジェイコブは病によって翌34年に亡くなりました。


ジェイコブの死後、エヴァの家族はスイスのチューリッヒに亡命しました。ウィーンから早くに退避できた、幸運なユダヤ人グループでした。同じくユダヤ人作家の息子であった、当時の恋人ハーマン・ブロックと、1942年に渡米。エヴァはその頃にダンサーとしてニューヨークで仕事をしていました。

この時期、後の夫となるジョン・ピエラコスとエヴァは、エヴァのダンス教室で、偶然、お互いを見かけていたことを後年知ります。実際に出会って恋に落ちるのは20年以上後のことです。


1950年代は、エヴァにとっては霊的なチャネルを開く訓練の時期となりました。


50年の秋、ニューヨークからチューリッヒに戻っていたエヴァは、母からチャネリングのセッションのことを聞かされ初めて参加します。その厳粛さを感じ、30代のエヴァはすぐさま訓練に入ります。本を読み、瞑想し、霊的な教師につき学び始めました。圧倒的にスピリチュアルな経験を2回経て、52年から自動書記でガイダンスを受け取ることがはじまったそうです。


50年から54年の間、エヴァの霊的な領域への意識は広がり、様々な霊的存在を感じ始めました。中には操作的で低次のエネルギーを持つ存在もおり、エヴァは、その存在の意図や動機を見極めることを自らのテストとしてプロセスを進めました。

そして自動書記の能力が確立される頃には、他の霊的な存在とは全く違うレベルの声を聞き始めます。それは、穏やかで叡智を伝える声であり、とても自由な感じがしたそうです。それに伴い、他の様々な能力も開いてきました。


そのプロセスがどのような経緯を辿ったのか、とても美しく書かれているヘルパーの方がいらっしゃるので、翻訳引用させて頂きます。


「月明かりに照らされた美しい夜、部屋に座って考え事をしている時に、エヴァは「自動書記」と呼ばれる現象を経験しました。彼女はこの現象を理解することを選び、友人の助けを借り、かなりの時間をトレーニングに費やしました。徐々に自動書記には特定のガイドが頻繁に現れるようになり、そのガイダンスはトランス状態を通してはるかに正確な形で現れるようになるだろうと伝えられました。1年半後、瞑想をしていて、全く期待していなかった時に、それが起こりました!そして2度目にトランスに入った時に、既に自動書記を通してよく知っていたガイドが、チャネリングの形で現れました。後にガイドと呼ばれるようになるこの声は、彼女を助け、助言しました。彼は、最も重要なことは、このチャネルを善のため、そして神の意志に従って人々を助ける為だけに使うという考えと意図を常に表現することだと言い、また、彼女の動機を常に浄化し続けるようにと言いました。」

ジュディス・ガーテン


自動書記を通したガイダンスの時期から、他の人のワークをサポートすることも勧められました。同時に、自分自身の浄化のワークも続けるよう、強く指示されました。

54年にチューリッヒに戻った折には、ガイドから指定された女性のチャネラーと週2回のワークを続け、自らの能力を広げるトレーニングをしたそうです。


当初、チャネリングの際、エヴァはガイドが何を言っていたのかは覚えていませんでした。

チャネリングが確立されるには、エゴ意識がサレンダーし、スピリチュアルなフォース(力)を信頼する必要がありました。それは、自身のハイヤーセルフの呼びかけにサレンダーし、チャネルとしての使命にコミットするエヴァ自身のプロセスでもありました。このプロセスには、1年半という時間が必要だったのです。

この時期に関して、エヴァはよく父ジェイコブの言葉「これだと思ったら全力を尽くす」をよく引き合いに出していたそうです


エヴァは最初の「パスワーカー」であったと言えると、プレゼンテーションの中でポール・パケットさんが仰っていました。この自己鍛錬の期間を経て、パスワークはエヴァのギフトを通し、ニューヨークを拠点として世界に広く広がっていきました。





258ものレクチャー、その他にも、膨大な量の精錬された霊的情報をもたらしたエヴァ本人の情報は、それほど残されていません。個人的にエヴァから思い出話を聞いていたヘルパー達が、折々で生徒たちに話した内容と、本人へのインタビューが少し残っている程度のようです。


ガイドは、チャネルであるエヴァを楽器と表現し、楽器に気を取られてはならないと話していました。エヴァ自身、自らのエゴがチャネリングの情報の質を下げることのないよう、ガイドからの指示のもと、深いセルフワークにコミットしていました。

楽器がなければ、曲は聴けません。エヴァのストーリーからは、強い意志と、目的遂行への意欲、神の意志への深い献身と信頼が感じられます。


「荒野で叫ぶ者の声がする。主の道を整え、その歩む道をまっすぐにせよ。」というイザヤ書の言葉(旧約聖書)が思い浮かびます。「荒野で叫ぶ者」とは預言者です。

エヴァは、後世の私たち、探求を続ける者達のハイヤーセルフが出現する為の道を「整えよう!」と誘い、地図を手にした道案内の役割を担ってくれました。


100年以上経った今、海を越えたこの日本でも、エヴァという1人の女性の意志に助けられていることの暖かさを感じます。この意志を届けてくれた、多くのヘルパー、パスワーカーに感謝です!

以上、お読みいただいて、ありがとうございました。




【前編】

【参考サイト】





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